2024/04/02

「草 sou」

本作品集は、その先の世に問いたいと想い渾身を込め2013年夏に完成したものです。

2013年10月のRising Sun Workshopにて、このブックのまま画廊にレビューを重ねていくのがよいとご助言をいただいておりました。

いっぽうで、作家としての責任を全うするには、写真へさらに身を捧げる覚悟が必要であり、自分の立場と環境を鑑み耳を澄まし得た結論は「今やるべきではない」でした。
といっても、仕事のほかには、茶を飲んだり、パラグライダーに興じて山と空に通じたり、この7年あまりは船釣りに益々興じ津々浦々の海に通じる日々。つまりは道楽者です。

すでに多くの方がお察しのとおり、インターネットにより知の解放が進み、マスメディアによる作為的な拘束は解かれつつあり、もう世の偽りは隠し通せません。
反面、船頭不在で進む路も心も断ち別れ、禍いがおき難破しかけている世界となっています。
法も政治心情も神さえも、見方により複数存在しているだけで、唯一の正義などありません。
自然や宇宙のことわりで生かされている動物ということ、感謝、慈愛、善意を持って和合し、光に向く波として在ることが真実なのではないでしょうか。

春は曙。10年前の作品を当時のまま開くことにしました。


ステートメント


「草 sou」


完璧に整った格式から脱して、無駄を省き、質素な姿の状態を「草」という。

恵まれた境遇にあらずとも、一縷の光に向かい、ひたむきに伸び、花開き、枯れ果てるまで色づかんとする市井の草花に、先人たちは草の価値を見出し、庵の床に生け、日本画を描いた。

舶来物の真に始まり、真似る行を経て、和のこころを草に写す。


解説


この作品集は、四季を通して東京23区内に佇むささやかな命に対し、茶室に生けられた一輪の花を見るように撮影したものです。

技術的・華美的・壮大なネイチャー写真の解釈ではなく、自然を身近に慈しんできた日本人の根源的なコンテキストに沿ったネイチャー写真を標榜しています。

同時に、現代におけるピクトリアリズム(絵画主義)の解釈を模索しています。

国内でピクトリアリズムが台頭した1900年前後は、日本画が確立・成熟した時期でもあり、当時のピクトリアリズムは、朦朧体など日本画の芸術性を取り込んだ写真表現であったとも思えます。スマホでもよく写る今、「草」のピクトリアリズムによって、リアルフォトグラフィーでもノスタルジーでもない写真表現の拡張ができるのではないかと。

ただしあくまで光学的な写真表現として、CGではなくレンズフィルターを組み合わせ、日本画と同様のメディアに投影することを試みました。

またブックは、プリントの質感と草の風合いを感じて頂けるよう、自作の和綴じ本に直貼りしています。


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